高橋翼さんへ

2003年 筋ジストロフィーと闘っている高橋翼さんとはじめて会った。車椅子に乗り緊張気味、笑顔がかわいいさわやかな高校生というのが第一印象!
当時、柏崎の国立療養所で入院生活を送る翼さんの学校から、当時勤めていた柏崎総合高校吹奏楽部と音楽の交流会を開催したいという話があり、数か月前から打ち合わせがはじまった。翼さんの活動のことや病気のことなど、私がいままで活動してきた「音楽」とは違っていた。しかしすんなりと受け入れられたることができたのは、部活で月一のボランティア演奏という目標とかみ合ったことだ。それからしばらく翼さんとの活動が何回とあった。
 2003年7月、心配もたくさんあるなか予定どおり翼さんとの交流会はおこなわれ、高校吹奏楽の演奏では~ジャパグラやポップス、大会曲を演奏し、翼さんはそれまで作詞作曲をしてきた持ち歌をピアノ伴奏者で披露した。そのなかに翼さんの代表作品となる「自由な翼を広げて」があった。聞きに来ていたみんなが感動、感銘してシーンとなった。病気だからだとかでなく。1時間ほどであったが随分時間が流れたように感じた。それからしばらくして、それは自分の中の音楽の鍵が開けられた瞬間であったことが解った。誰にでもある話だ。
 それからは度々病院まで伺い音楽の話に花を咲かせた。作詞のモチーフや作曲の感覚、翼さんの持つエネルギーやメッセージに感動するとともにある種のライバル心を頂いた。重い病棟病室の中での一時だがすごく大切な時間だったと今でも思い出さずにいられない。それから国立療養所のミニコンサートに参加、2004年6月には柏崎で大々的におこなわれる風の陣に出演、市内高校中学一般バンドの合同伴奏による「自由な翼を広げて」の演奏がおこなわれた。トラブルがあり雨の肌寒い日ということと、なんと当日だけのリハで、翼さんのKeyと1音違っていたことがわかりリハ前、翼さんとミーティング、「あなただったら絶対歌える」と気持ちをぶつけた~付き添いの人たちが見守る長い沈黙、翼さんは「やってみます」と言ってくれた。音楽好き人間vs音楽好き人間の真っ向勝負、その時のことを思い出すだけで震えてしまう。翼さんの体力を考えリハも一発!彼は実家の新発田五十公野から来てくれたと覚えている。そんな遠くからきた彼の歌をもっと聴いて欲しかった。私だけでなくみんながそう思い願った。本当に祈るような時間だった。それまでコンクールで味わった緊張感の時間とは全く違う無我夢中の時間であった。それと翼さんの歌を管楽器の伴奏用にアレンジをしてくれた卒業生の作曲を目指す友人の為(初めての作品)にもなんとか演奏したかった。そんないろんな思いがあった。それからも翼さんとの音楽のやりとりは続き、新潟駅前でのライブ、デビューの話、NHK教育番組「きらっといきる」でも特集された。 ~命の歌い人~という翼さんのもっとうどおり、翼さんは私の音楽の花であることに間違いない。
 翼さんは生きていたら2月で33歳(2008年7月22歳で他界)になる。他界してしばらくして当時交流会をした卒業生とお参りに伺った。ライバルを失った。仲間を失った。でも翼さんの音楽は私や多くの人の中で生きている。気持ちや心も失いかけたが、頭の中では翼さんがたくさんの曲を歌ってくれる。翼さんが生きててくれたらと思う人がたくさんいるだろう。翼さんの楽譜があればまた演奏したいと最近強く思った。新発田にいる限りその想いは尽きないだろう。
 翼さんへ あなたの音楽にはまだまだ及ばない、でも私は頑張る。たくさん失敗して恥をかいているけど頑張る。もっともっといい音楽と出会い楽しんでいきたいと思っている。だから見守っててくださいとか、あなたの分も音楽しますともまるで思っていません。先のことなど全くわからないから、ただ、あなたを思い出して音楽を続けていきたい。

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